堀秀治の讒訴というのが定説であるが、近年秀治が西軍側につこうとしたことを示す書状などが発見されている。家康は三成挙兵により反転する際、結城秀康を主力に、上杉領に面した最上義光や、その近隣の秀治や伊達政宗に対して景勝監視の命を下した。上杉領を自領が分断する形になっていた最上義光は、上杉勢との衝突は避けられなかった。義光は奥羽諸将と連合し上杉勢と戦おうとしたが、関ヶ原開戦の報を受けると諸将は自国安定のため引き上げていった。数の上で不利を悟った義光は、嫡子を人質とすることを条件に上杉勢に和睦を申し入れたが、義光が秋田実季(東軍)と結び上杉領を攻める形跡を上杉側に知られたため成立しなかった。9月9日、米沢城方面から直江兼続率いる上杉勢が最上領に押し入った。さらに小野寺義道も最上領に侵入した。
伊達政宗は東軍に付き徳川家康が勝利した暁には、政宗の旧領7郡を加増し百万石の領地を与えるという、家康から「百万石のお墨付き」(仙台市博物館蔵)を受け取っていた。伊達勢は上杉領の白石城を攻撃し占領するも、これを返還することを条件に上杉勢と和睦を結んだ。
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最上義光は急な侵攻に慌て、急ぎ伊達政宗に援軍を要請。伊達家内では「上杉勢と最上勢を戦わせて疲弊した後に攻めれば、上杉勢を容易く退けることが出来、山形は労せずして我が物になる」という片倉景綱の進言も出たが、最上潰滅は上杉景勝の脅威をまともに受けることにつながるので(一説には山形城に居る母の身を政宗が案じたとも)留守政景を総大将名代として9月17日に援軍を出撃させた。しかし伊達勢は出撃せず、最上領内で様子を見るにとどまった。 兼続は最上勢の鮭延秀綱らの勇戦に苦戦し、志村光安が守備する寡兵の長谷堂城を攻略しきれなかったことで戦局は膠着状態となったが、9月29日に関ヶ原の詳報が両軍陣営に達し、流れは一気に最上勢に傾いた。
兼続はすぐさま撤退を命令し、自身で殿軍を努め撤退を開始した。義光はただちに追撃を命令し、自ら先頭に立ち猛攻を仕掛けた。この追撃戦は大混戦となり、義光は兜に銃弾を受けるなどしたが、最上義康らの軍勢が追いつき難を逃れた。兼続勢は10月4日に米沢城に帰還したが、最上領内部に取り残された上杉勢は最上勢に敗れ、下対馬など降伏する者が相次いだ(慶長出羽合戦)。